物語は死へと繋がる

 

 

「こふっちゃんの作る話って誰か必ず死ぬよね」

 

 

よくそんな風に言われる。

勿論それは意識しての事なので、必ず誰かが死んでしまう物語となる。

 

 

命の誕生があるなら、人は必ず終わりが来るもの。それが寿命であったり、事故や自殺や殺人であったり。死の選択は自らが全て行えるものではないため、書く側は当たり前のようにその権利を与えられ自由に人の生き死にを選んでしまう。

 

ふと、物語の中で死んだキャラクターはどこへ行ってしまうのかを考えた。

よく、読者の心の中に生き続けると言われる。たとえば「ゴジラVSデストロイア」でゴジラは死んだ。その別れを惜しむようにファンたちによってゴジラの葬儀が行われた。虚構が現実に影響を与えた一つに挙げられるそれは、ゴジラの死を悲しみ嘆いた大多数の人達によって実現したからである。キャラクターが愛されるのは作者としては本望だろう。

 

 

正直に言ってしまえば、死とは美しいものだ。人は生まれたときに泣くが、死ぬときは涙は流れない。泣くという人の感情が必要でない、全うした証である静かな眠りは年齢など関係なく、この動き続けるときの中で唯一許された静止なのだ。

死は、必ず人のみに起こるものではない。動物や植物、果ては街や空間も死んでいく。”廃墟”が価値あるものとして語られるのは、その静止した空間が異質でありながら、芸術的な観点で評価されるからであり、朽ちていく物全てに共通するものだと言える。かつてここに命があり、人々の会話があり歴史があった。死してなお想い人が現れ手を合わす。遺伝子的に組み込まれた人間の死への弔いが、あらゆるものへ向けられるのは面白い話だ。

 

 

 

だからこそ物語を作るうえで、「死」は外すことのできない題材だ。悲しみの「死」があるのなら、喜びの「死」もある。あらゆる感情の先に「死」があるなら、それが人間が与えられた独特の感性ならば、その先を観たい。自分の目で見てみたい。

勿論自分で生み出したキャラクターの最期を描くのは辛い部分もある。四六時中頭の中で笑顔を見せる少女が永い眠りにつくのは、親心が働いて締め付けられる。その子の生きてきた証は自分しか知らない、分からない。だから魅力的で輝かしい人生を描きたい。

 

物語は死へと繋がる。だから、精一杯に綺麗な花束を渡してあげたい。